珈琲タイム

誕生日

今日はン回目の私の誕生日。
亡母から「ホンマにキリストと同じ、25日の明け方に産まれた」
と聞かされて育った。「私はマリア」とも言っていたなぁ。
私は馬小屋ならぬ、鍵町の長屋の二階で産まれたのだが、
その当時は、産婆さんで自宅で出産するのは当たり前だった
ようだ。
亡母が18歳の時の子供だから、とても初々しい若いママで、
抱っこされているその当時の写真がなつかしい。
誕生日がクリスマスなので、小さい時から部屋に金銀のモール
を飾って友達を呼んで小さなパーティをしてもらった。
テーブルには白いクロスをかけて、お手製のカレーライスとデコ
レーションケーキが並ぶ。
今となって思えば、けっこうちゃんと「お母さん」やってくれてた
んだ。天国に聞こえるかな?「お母さ〜ん、おおきにね」。

  母だから泣かない母だから泣く日   新子

年賀状

今日あたり、年賀状作りで大忙しの方もいらっしゃると思う。
母譲りの「すぐやる」私は、もうすでにポストした。
その亡母は、いつ頃からか年賀状を欠礼するようになった。
枚数が桁外れになりそうという以外、理由をあえて聞かな
かったが「百句解体」を読んでいたら、
 ――ひそかに愛していた人が家族写真入の年賀状を
 送ってきた年からか。そんなことはない。その無神経さを
 知ったことで思いがふっきれたのだし、ほかの人たちに礼
 を失する理由にならない。
  あえて弁解すれば、ある年に喪中はがきがこれでもかと
 届いて、それが気の早い私が年賀状をポストしたあとだっ
 たこと、がきっかけかもしれない――
とあった。
それにしても、12月の気忙しい時に、今年のことを去年と
書き、来年のことを今年と書く違和感。ゆったりとお正月の
2日頃に書いてみたいと思うのだけれど……。
私も何度か止めようかなと思った時もあったが、喪中の時に
お正月の1日にポストに年賀状がない寂しさを味わった時、
相手を思いながらの年一回の近況報告もいいかなと、今年
も出してしまった。
   落葉さくさく雪のふるまで踏み惑う  新子

新幹線0系

「夢の超特急」と言われた、新幹線0系が引退した。
実は、その昭和39年、亡母の柳友に国鉄(当時)の方がいらし
て、家族試乗に紛れ込み私たち親子三人も乗せてもらったのだ。
確か、新大阪から岐阜羽島までだったような記憶が。
私は高校一年生、弟は小学6年生、一張羅のよそ行きを着せて
もらって嬉しそうな写真が残っている。
弟はもちろん新幹線に乗れたこともあるのだが、国鉄に知り合い
がいるということに「お母さんってすごいすごい」を連発していた。

新幹線といえば、亡母が新神戸から上京してくる時は、必ず東京
駅のホームまで私が出迎えていた。
のぞみ何号の何号車と指定してくるので、ドアの前で「やぁ、ごく
ろうさん!」となる。
テレビの仕事で来ることが多かったので、目いっぱいのおしゃれ
をして降りてきた。時にはヘアーカラーがグリーンやピンクの時も。
刈上げにして栗のような頭で現れた時には笑いをこらえるのに
必死。「斬新やねぇ」というと「美容師さんにエエようにされてるん
よ、そのうち丸坊主にされるかも」と笑っていた。
新幹線と母、数え切れない思い出がある。

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プロフィール


芳賀博子
「時実新子の川柳大学」元会員。
初代管理人・望月こりんさんより引き継ぎ、2014年2月より担当。
ゆに代表。
https://uni575.com

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