珈琲タイム

弱い目

最近、頓に目がかすんできた。
母も眼は弱かったから、確かなDNA。
母は、54歳頃にもう目が見えなくなると大騒ぎしたことがあった。
それで、見えない眼を酷使して『新子百句』なる手書きの句集を
作った。和紙に一枚一句母の字で書いてある。
当時確か一冊5万円の限定予約販売。「アンタとこは夫婦で一冊
なんて言わんで、一人一冊ずつ買うてね」とちゃっかり請求された。
「高いなぁ」とその時は思ったが、今となっては宝物である。私は、
身びいきになるが、母の字が大好きである。お習字の基本を習った
わけではないのに……心があるのかな。

後年母が入退院を繰り返していた頃、白内障の手術をすることにな
った。怖がりなので、かなりの決心をしてのことだった。
それが、手術2〜3日前から熱が出て手術は見合わそうということに
なったのだが、その時母は、先生にどうしても手術をしてほしいと、
泣きながら懇願したそうな。
先生は「子供でも遠足の時に熱が出たら遠足あきらめるでしょう」と。
母は「私は、行きます!」と食い下がり、熱も少し下がってきたので
片目のみ実行。
数日後にもう片方をという時に今度は、「もうけっこうです」と頑とし
て手術を拒んだ。すっきり世の中を見渡して死にたいと言っていた
のに。理由は「しんどいから」としか言わなかったが、母の心境の
変化には何があったのだろう。
私も、世の中をすっきり見たいと毎日思うのだけれど、手術はできな
いと言われている。
「お母さんもこんな感じでボヤーッと見てたのかな」と思うことが最近
多くなってきた。

三丁目の夕日

「続三丁目の夕日」をDVD借りてきて観た。
最初のは、試写会で観て、いろんなものが懐かしくて「うちと一緒
や、そうそう」とワクワクして、弟や両親と一緒に観たら楽しいだろ
うなと思った。レトロに惹かれるようになったということは、私もトシ。

昭和34年、母は30歳、私は12歳、弟は8歳。父が電化製品に
やたら敏感で、新しいもの好きだったからお金持ちでもないウチに
よそより早くテレビが入り、映画と同じで近所の人がみかんや
おやつを持ってウチに集まってきていた。
冷蔵庫や洗濯機も映画の通り。母は「洗い熊」というあだ名がつく
くらい洗濯が好きだった。学校から帰ると、物干しに一緒について
上がり、茣蓙をしいた上で洗濯物を畳みながら、学校であったこと
いろいろ話した。物干し台から見る鍵町の夕日はうろ覚えだが、
西日の色だけは、なぜかはっきり覚えている。
テープレコーダーもいち早く買って貰った。
声の便りと称して、岡山の祖父母と、流行の歌を吹き込んだり、
近況を報告しあうテープの交換をして楽しんでいた。

この34年には、
  <十七の花嫁なりし有夫恋>  新子
  <月のかさめぐり逢わねばただの暈>  新子
など、後々代表作となる句を作っている。

百句解体

母が亡くなって半年位経って、ある年配の方から電話をもらい、
新聞記事になった「百句解体」を全部切り抜いてノートにしている
のだが、自分も年なので新子の娘の私にもらってほしいとのこと
で、送られてきた。達筆の表紙がついて、目次もちゃんとこさえて
ある。全部、きちんとした形では持ってなかったので、すごくあり
がたいし、うれしかった。
この方は、川柳はやらないが、時実新子の大ファンということだっ
た。新子さんに元気をもらったと。
遺影の横にしばらく飾っていたのだが、時間が出来たので、先日
ゆっくり全部に目を通した。
この原稿は確か、数日で50本(一編に2句ある)一度に書き上
げたと母が話していた。新聞社の人もびっくりされてたとか。
連載というと、毎回締切りに間に合わせるべく原稿を渡すもの。
何でもすぐにしないと気がすまない母らしい。
挿絵は大橋歩さん。ダメもとで依頼したら快く引き受けてくださっ
たと喜んでいた。
まだ、少し元気があった2002年の連載である。お手元に持って
らっしゃる方がいらしたら、もう一度読み直してほしい作品だと思う。

物知らず?

今日、ある方からメールをいただいて私のブログの間違いを
指摘をしてくださった。
 カプチーノの話の中の「パティシエ」は「バリスタ」と言うのだ
 そうだ。私も、「パティシエ」がケーキ作りの職人さんのこと
 くらいは知っていた。 が、珈琲を淹れる専門家を「バリスタ」
 と言うのは知らなかった。
この年にして知らないことが多すぎる。特に横文字は弱い!
これでも、学生時代は英語の成績(ペーパーテスト)だけはな
ぜか良くて、英語を生かせる職業に尽きたいなんて望みを持
っていた。まッお菓子や料理関係はフランス語やイタリア語が
多いから、仕方ないとしても……。
日本語、それも関西弁しかしゃべれないワタシには語学は
無理かもしれない。

また、母とのクルージングの時の話を思い出した。
 ペナンから船に合流するため、関空からは飛行機でペナンに
 行くことに。
 出発時間が来てもエージェンシーの方も誰も来ない。聞くと
 母は秘書(私のこと)を同行しますと相手先に言ってたらしい。
 だからか、付き添わなくて大丈夫と判断されたらしい。
 急遽私は、旅なれた英語の得意な秘書に変身! ナンテ、
 出来るわけがない。何とか飛行機には乗ったが、機内では
 先のことを考えると緊張のあまり、普段おしゃべりな母娘も
 口数が少なくなる。
 シンガポールでのトランジットでは、日本語の通じる人を探し
 て空港内を走り回る。こんなところで迷子にはなりたくない。
 母は「アンタ、英語の成績良かったでしょ」なんて言い出す。
 そんなもの、十数年前にどっかに置いてきた。英語とは無縁
 の暮らしをしてきたワタシ。
 この時も、外国語の必要性を痛切に感じたはずだったのだ。
 

お知らせ

川柳大学のメールアドレスが変わりました。  senryudaigaku@ab.auone-net.jp 尚、HP各頁、右上にあるメールのマークからも川柳大学へ メールが届きます。 よろしくお願いします。

わが街

10日(土)夜ののTV「出没アド街ック天国」で事務局のある街が
紹介される。
私は、この街に住んで24年。生まれ育った姫路には18歳まで
だったから、それより長いことになる。
ここに落ち着くまでにはあちこち転々とした。大阪から福岡へ行き
鹿児島へも。その都度母は、訪ねて来てくれた。
私が住んでた町名が井尻、原良という名で「しりにはら、けったい
な名前のとこに住むねぇ」と笑っていたっけ。
今は最寄り駅が「青物横丁」これも別の意味でけったいかもしれない。
青物の市場があるわけでもない。駅前でよく「市場はどこですか」
と尋ねられる。どんなふうに街が紹介されるのだろう。
母が編集会議やTV出演で上京してきた時には、事務局に泊まる
こともあった。でも、ほとんど外出はせず、珈琲を飲みながら部屋で
夕日が沈むのや赤い電車(京急)が走るのを見ていた。
  
   ゆらゆらと電車重なりあう真昼  新子

娘が住んでいるいる街を母はどんな思いで感じていたのだろう。

カプチーノ



先日行った、温泉街の喫茶店のカプチーノ。少し甘めだったけれど
おいしくて2杯もお代わりしてしまった。
神戸のカフェのカプチーノは、聞くところによると世界のコンテストで
いい成績を収められた日本一の女性パテシェの作品なんだとか。
都会と田舎のカプチーノ、どちらも甲乙付けがたいあったかい飲み
物だ。

  珈琲を一人で飲んでいると 風  新子

温泉

気分転換に群馬の温泉に行って来た。
旅館の中に温泉がいくつもある。露天風呂がすばらしかった。
滝の音とせせらぎの音に囲まれ、淡い淡いピンクの山桜、そして
新緑の木々。泳げないので水が嫌い、従ってお風呂はそんなに
好きでもない私だが、ここの景色は格別で、お湯に浸かっている
のを忘れてしまうほど。
ゆったりそんな時間を過ごしていると、「お母さんにもこんな時間
があったんだろうか」とついつい忙しかった母のことを思い出してし
まう。
母とお風呂というと、数年前の「ぱしふぃっくびいなす」のクルージ
ングを思い出す。ビルに直すと10階建て相当の船で、その10階
に展望風呂があった。周りは海しか見えないので、まるで海に入
っているような錯覚をするほど。早起きの母に付き合って、朝日が
昇るのを何度もここから見た。
そういえば、この旅にはデュークエイセスの方々とも一緒で、母が
「ダークさん」とダークダックスさんと呼び間違えるたびに、ベース
担当の槇野さんに低音で「デュークです」と直されていたっけ。

この船旅を喜んでくれていた母と、次はパリに行こうと約束してい
たのになぁ……。
  パリへ行く約束をしてサロンパス  新子

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プロフィール


芳賀博子
「時実新子の川柳大学」元会員。
初代管理人・望月こりんさんより引き継ぎ、2014年2月より担当。
ゆに代表。
https://uni575.com

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